息のできる死骸

この1年間の人との関わり合いの薄さと言えば異常なほどで、本当に人間社会で生きているのかも分からないくらい堕落した生活を送っていた。そのあいだ文明が与えた恩恵と厄難についてしばらく考えたりしていた。

自分が普通の状態ではないのにこれまで通りに人の生活の中に滞留し続けることが妙なことに感じられて、手始めにインスタグラムを消してみた。別に何か変わったわけじゃないし、これから何かを変えようとも思わないけど、身辺整理というかそんなような意味もあったし、まあその時はあと少ししたら死のうとか思ってた。積極的な死にたいに支配されるわけではないけれども、私が死んであの子が葬式に来てご冥福祈ったら呪ってやるわ、とか、陰鬱な気持ちを常に抱っこしていた。

重度の双極性障害と診断されて、もう正しい自分には戻れないんだろうなって思った。

戻れる気配がまるでない。精神が暗いところに置き去りにされて這い上がることができない。鬱の状態のときは飲み物を飲むために冷蔵庫まで行くことすら重労働で、ご飯は一日一食食べられたら偉いもんだと思う。今回の長い長い躁が終わって、反動のようにツケのように、何もしていない時に涙が出てくる日々がやってきた。躁のときはあんまり辛いことを辛いと感じなくて、睡眠を全くとっていなくても目はギンギンに開くので、その状態でクッキーやマドレーヌを焼いたりした。高いお肉を買って1人ですき焼きを食べたりもした。鬱のときはお金を全く使わないで生活できるけど、躁のときは無鉄砲に色々と消費してしまう。そのジェットコースターに疲れる。生きることに疲労している。