動かない永遠

わたしが働いている学校は湿っぽい。曇天の日は廊下がビタビタになっている。モップをかけても雑巾で拭いても変わらない。晴れていても渡り廊下はやたらと翳りがあり、変なところに虫が死んでいて、使っていない空き教室の机はごちゃついていて、そして職員はみんな病んでいる。人間の生活を捨てている人、過度に期待をされている人、日を跨ぐギリギリまで仕事をする人、そういう人たちが、お互いの陰口を言い合うことでなんとか現場を回している。終わってると思う。驚くほどに陰気で陰湿で粘度が高い不幸が張り付いた職場だ。わたしは働き方改革を進めたい人とやたら献身好きな人が生み出すギャップに挟まり手足を捥がれている。仕事したい人はすればいいし、そうじゃなければ必要最低限分こなして帰るのがヘルシーに決まっている。上からの厳しい目に見張られて、無理をしないとサボっていると思われる。無気力のくせに人からの視線を常に気にしている私は、やる気があるふりをしている。子どもたちが可愛くて仕方ないのに彼らに費やす時間よりも事務的な処理をしている時間の方が圧倒的に多く、もどかしさと苛立ちが募る。もう仕事を本当に辞めた方がいい気がする。来年度もこの職員室で楽しくもないのにニコニコするのだと思うとそんな自分に嫌気がさす。いつから私の人生は仕事に所有されているのだろう。生徒が言う。授業面白かったです。分かりやすかったです。この科目を好きになれました。それだけでいいのに。それだけでいいはずなのに。

永遠の隙に

隙間に隠れるようにして暮らし、少しは寝付けるようになった。朝は相変わらずアラームを呪うけど、それでも前よりはずっといい気がする。社会人二年目のおわりに差し掛かってようやく人間らしくなってきた。先輩方とおどけて話したりもする。

自分らしく生きるには努力が、そして才能が足りなかった。ずっと物語の世界にだけいられたら私はそれでよかったんだ。これくらいが適切だろうと距離を測ってたどり着いた終着点がここか。どれだけ仕事をしてみてもやはり労働は好きじゃない。わたしはわたしをやさしい人間と思っていたけど、こんな仕事をしてみて初めて、自分のほんとうのところ、というものに気付いた。わたしは別にやさしくない。性格が心底歪んでいるから、相手が言われたくないことも言われたいこともなんとなく分かる。やさしくしたい時にやさしくしているだけで、可哀想なやつがいたらそれに自分を重ねて、自分が多分ほんとうに言われたかった言葉を注いでいるだけなんだろう。「あー自分宛だねこれ」と頭のどこかで冷静になる。あぶくのように言葉を放って「やさしい」と言われる。みっともないなと思う。もらえなかったものを人にあげることばかり上手になったよ。

体の中にずっとあったコンパスがいつのまにか完璧に分解されて、その輝きを定位置のカメラを通してずっと見ているような感じでうまくいかない。向かうべき方向がない。まったく変わってしまった自分に、夜もぐっすり眠れるようになった自分に、あの頃の自分の何がわかるというのだろう。「分かるよ」なんて死んでも言われたくない言葉だったはずだ。居心地の良い孤独をゆりかごにして外部との接続を断って、それでしか得られない安心がある。誰も傷付けなくて済むし誰にも傷付けられない。言われたかった何かがあった。その何かはもうまるで思い出すことはできない。自分が鈍化していく。

やさしい歌

神聖かまってちゃんが好きです。神聖かまってちゃんが好きと言うと世間からは「メンヘラ」と言われるのですが、の子が作る歌詞はとにかく優しいんです。人が魂を込めて作った歌が自分には響かない、いうことを、ただ「メンヘラがメンヘラのために作った曲だから」と形容することはすごく愚かなことだと思う。神聖かまってちゃんでは「死にたい季節」の

ねぇそうだろう 諦めてると僕らは なぜか少し生きやすくなる

という歌詞が好きです。

諦めて生きるということは世の中や他人に期待しないということ、という意味以上に、自分に期待しないということだと思います。自分に大きな期待をしすぎず常に程々を目指せば傷付かなくて済む、そんな風に曲がっていった自分が浮き彫りになるような歌詞だと思います。の子はそれを否定しない。それがすごく優しいなと思うんです。何かを目指さないことで自分を守ることにした人たちへの労いのような歌だと思います。

 

他には、たまに聴いているamazarashiの「爆弾の作り方」では

街には危険がいっぱいだから 誰にも会わず自分を守る

の部分が好きです。私は休日を迎えるたびしょっちゅう部屋に引きこもっています。部屋に引きこもって誰とも連絡を取らず、精神的にも完全に引きこもります。でも完全にずっとそうしているわけにもいかない。人間社会で生きていくならどんなに凄惨でも外に出て何かしないといけない。人間社会に限らず野生でも生きていけないでしょう。そこで必要になるのが爆弾の作り方です。自分のなかにいつか爆発できるはずの何かを作り出して、それを守っていることにする。そうしたら少しは正当化できる気がする。

 

それと、初めて聴いた時から欠かさず毎日聴いているのが大森靖子の「非国民的ヒーロー」です。大森靖子の曲の中でいちばん初めにハマった曲です。この曲はもともとの子が作った「非国民的アイドル」に対するアンサーのようなものですが、どちらも好き。

非国民的アイドルでは

ニーチェが言えば神は死んだんでしょ?

いいよね!君は流行りにも乗ってけそうだし

のところが好きです。誰かから又聞きしたような、教科書に書いてあることを覚えただけのような歌詞です。ニーチェという昔々のすごい人は「神は死んだ」と言ったらしい。人々の神への信仰が薄れ、それは人類に殺されたということなのだろうけど、凡夫にとっては神など元々存在していない。誰かが言ったことなど実感が湧かない。だけど君はそうじゃない。君は知らない誰かのすごそうな発言を無邪気に信じることができて、実体のないような流行にもなんなく乗ることができる。君とわたしの決定的な違い、に対する諦念。

そして非国民的ヒーローでは

すぐにはゆるせない だけど引きずられたくない どっちもハズレの「どーっちだ」みたいだ

という歌詞がたまらなく好きです。これってものすごく分かるというか、分からせられてしまいます。人を呪い続けるのには本当に体力が必要です。忘れたいけど許せない。許せないけど引きずられたくない。ハズレしかない二択のくじを無理やり選ばされているような気になって、だから忘れたい、忘れられたい。わたしはそう思うときがあります。人に対する「ゆるせない」という感情、つまり申し訳ないと思い続けてほしい、というような強気さの対岸に「引きずられたくない」という極端な弱気がきっと誰にでもあるのではないかと思います。大森靖子はこういう自己矛盾のような感情を本当に美しくストレートに、でも誰にも思い付かないような言葉選びで表現してくれます。例えば「VOID」という曲では

嫌われたくない 一人になりたい だけど寂しい 傷付かれたくない

という歌詞があります。人と向き合うことで生じる痛みから逃げたいけれど、そうしたら今度は孤独と向き合わなくてはならない。わたしが孤独にもがく間、きみはそれを見て勝手に傷付くのでしょう。傷付けたくないじゃなく「傷付かれたくない」。ここに人間として生きる際のずるっこさのようなものを見出し、それがわたしにはいたく見覚えのあるものなのでした。大森靖子さんの歌詞は、素の自分自身というものと他人から見られることで形作られる自分というものを対比させていることが多いように感じます。それはわたし自身が抱える絶対的命題のひとつであり、だからこそこういう歌詞に強く反応してしまうのかもしれません。

そして最後に大森靖子の優しさが最大限詰まった曲、「マジックミラー」です。

あたしのゆめは 君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを 掻き集めて大きな鏡を作ること 君がつくった美しい世界を見せてあげる

というところです。サビとしての盛り上がりを見せる箇所でもあります。「君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFE」というところが特に大好きで、この部分は本当に心の底に沁みます。生きていく中でどうしても捨てなければならなかったことについて思いを馳せます。こんなのじゃない、もっとこうじゃなきゃ許せない、そんな風に追い立てて作り上げたしぼりカスのような自分。HPは使い切って残機はいつも不十分で、頭の上にずっとドクロマークが付いている。そんな人たちの捨ててきたすべてを集めて、大森靖子は鏡を作ると言うのです。それを美しいと言うのです。

あたしの有名は 君の孤独のためにだけ光るよ

こんなにやさしいことがありますか。泣いてしまいます。

汚泥も愛してた

朝早く車に乗って仕事に向かっていた。視界の隅がまぶしくて顔を向けると、窓についた朝露が凍って、ひどく美しかった。枕草子の「九月ばかり」を思い出した。その次の日は濃く霧が巻いていた。早朝で太陽は低く、建物にすぐに隠れてしまった。川の横を通り過ぎるその数瞬、光を浴びない霧は絵画の世界のように青くなり、空気を一変させた。幻想的で神秘的だった。うれしかった。冷たくてやさしかった。その次の日は退勤後に空を見ると一面鱗雲に覆われていた。地球が終わる日はこんな空なんだろうと思った。曇っていたけどどんよりとはしていなくて、すぐに日が落ちてもう見えなくなってしまったけれど、これが見られたなら星なんて見えなくていいやと思った。綺麗なものをちゃんと綺麗だと思えること、これ以上に嬉しいことってない。冷たいものが好き。冷たくて尖っていて静かなものが好き。

どこにも旅立てない

他人がどうなっていたってなんともない、そんな強靭な不道徳さが少しでもあればもう少し楽だったのかもしれない。中途半端な正義を抱いて育ったために私は不正を許さない。だから自分も許せない。私は自分のことを愚かで不正な申し訳のない存在だと絶えず感じ続けている。

やっぱり無理だと何回も思った。人に話せば話すほど自分でも分からなくなる何かが私にはあって、その違和感を知らんぷりしてヘラヘラしていると次第に声がうわずっていくのが分かる。いつもあの無感触な世界が私の中で膨らんで爆発しそうになる。目の前の光景は全て私一人が作り出した夢なんじゃないかとぞっとする。現実では私は妄想癖のあるどうしようもない女で、近くの小学校の校門の前でぶつぶつと独り言を言っているだけなのではないか。そんなことはありえない。だけど目の前にいる人たちと自分は何億光年離れたところで生きている別の生き物だということははっきり分かる。自分だけがただ一人、場違いなところに来てしまった別の人間で、やっぱり私は泣きながら食事をして、翌朝食べたものを全部吐く生活をただ繰り返すだけの女で、結局なにとも繋がってはいない。私だけが一人対岸にいる感じがする。みんなは向こう岸にいて、話していることは何一つ鮮明に聞こえない。それを誤魔化すためにただ大きな声で返事をする。それで会話が成立するわけもない。私にはなにも分からない。

銃声のない国で

調子が良くない時のわたしはほんとうにくだらない。「分からない」ということに対する恐怖が365日四六時中付き纏っている。入院していたときのわたしはいつも守られていて、そして何もできなかった。不必要に豪勢な個室の病室で隠されるように布団でぼーっと目を覚ましたときの、あの白んだ空を見た時の感情がずっと残っている。他のことはあんまり覚えていない。生まれて初めて乗った救急車のなかで切迫した誰かの声が耳にこびりついているというのに。

思い出しても意味のないことばかりが頭の中を巡る。わたしはいつも寂しがっている。簡単にそうは言えないので「寂しい」の代わりになる言葉をたくさん作った。会いたい、明日はなにするの、今日は甘エビのカルボナーラを作ったよ。でも全部しっくり来ない。わたしの席だけがどこにもない気がする。わたしには何かを築こう、成し遂げようといったような上向きな思考がまったく欠如しているのだ。頑張った分だけ席が増えていくこの世界で、わたしはマイナスをゼロに戻すことだけに苦心している。人といることで楽をしてプラスを得ようとしている。浅ましく「逃げていいよ」「辞めていいよ」を常に求めながら、その甘い言葉の裏に隠蔽されている何かを探ろうとしている。言葉に規定されながら。考えて考えて考え抜いて、吟味して削って尖らせて。

複合的な思いのひとつひとつを認識して感情を表現しようとしても粗末な言葉にしか収まらない。言葉にならなかった分が涙になる。言語化できれば処理できる。このまま救われないのかもしれない。だからいつも泣いてばかりいる。

同じ夜

みじめで情けなくて不甲斐なくて、自分の感情は化け物みたいで手に負えなくて持て余して打ちひしがれている。なにもうまくできない。どうしようもないときは他人に対して兎角無関心になってしまうか不必要に攻撃的な気持ちになる。もっと私のこと分かってほしいのに、自分でも分からない自分を分かってもらえるわけがないからそれでまた絶望する。絶望という言葉はいつも無難で扱いやすい。大切にしたいものほどうまくいかないもどかしさにむかついてたまらない。共感なんてするわけない。ゲームして寝てた日とかない。飲んで記憶なくして知らない部屋だったこともない。幸せこそ独創的でなければと思うほど人とは相違する。私の中の私じゃなさを可愛がられる。なにがが削られていく気がして気持ち悪い。