欠陥に恋をする

 

持っているものは若さと時間だけだという自覚が、己を延々と苦しませ続けている。とにかく体力がない。納得いくまで考え込むくせに終点は見つからず、体力ばかりを浪費し、自分以外の何かに異常なほど共感しては寒くなったり悲しくなったりする。人間として生きていくのが辛い。既にこの社会の、世界の一員だという事実、それだけのことに、私は何度も何度も打ちひしがれて、いずれ何もかも諦めて失踪してしまう気がしている。

緊急事態がもっともっと緊急になってしまう前に、ダメになってしまった私を親が迎えに来てくれて、今は実家で過ごしている。両親は私が家にいることに安心していたし、私ものんびり過ごしていたけれど、社会の大きな嫌なことやこれからの将来のこと、もうどうにもできないこと、大学のこと、お金のこと、家族の暮らしのことを考える時間が増えてしまった。私は太宰文学の中でも『斜陽』に不気味なほどの愛着を覚えている。

実家にいたいわけじゃないけど東京にいたいわけでもない、どこかに行きたいけどどこにも居たくない、誰にも会いたくないけど生きてることを見ていてほしい、何かになりたいけど何の希望もない。田舎にいると晴れの日が綺麗すぎて惨めさが浮き彫りになるようで焦燥感が募り、都会は人が多くて外に少し出ただけで疲れてしまう。どこにいるにも向いていなくて、どこにいてもいつも焦っている。いつか救われるってことばかり考えている人間が救われることなんてないのかもしれない。何が悲しいとか何が嫌だとかはもう何も分からない。

私は割とへらへらしているし、人に合わせることができるし、どんな人とでも楽しそうにできるけど、そういう時の自分が本当に本当に嫌い。不本意な場面で大きな声を出すことも好きじゃない。本当は何よりも静かに穏やかに優しく暮らしたい。思ってもないことを言いたくないし、本当に楽しくないことで笑いたくない。 早く全部どうでもよくなって、自分にも他人にも執着せず焦ったり憤ったりすることもなく生きていけるようになりたい。その気持ちが積もるところまで積もって大きな大きな超えられない山になってしまったら本当に失踪してしまいそうで、私は私が怖い。明日も私が私でいることが怖い。楽しいことはもちろんあるけど、楽しいのはその時だけで、あとはずっと同じ。楽しいことの後もずっと続いていく自分の人生が嫌い。だからずっと本を読みたい。勉強がしたい。もし満たされていないとしても、満たされていそうな明るさが欲しい。生きていくなら何かを頑張るか全部諦めるかの二択を選ぶ必要がある。

恋人ができてから少しのあいだ、自分にへばりついていたドロドロの虚しさを優しさやあざとさで隠して無かったことにしていたら、放置したまま忘れてしまっていた。それでよかったのに、ひとつの瑣末なことでガラガラと崩れて、メッキで固められていたところが全部剥がれてしまった。もう恋人に対して自分の嫌なところを隠すこともやめた。近頃の私にはこれが一過性の虚ろなんかではなく、まさに自分の本質のように思えている。