人間を被る

可愛いは正義、可愛いは呪い、わたしはずっと、生まれてからずっと、23歳を迎えた今になってもずっと、可愛いという茨の言葉に縛られて傷付き続けている。自分の精神上の(あるいは外見上の)美醜に馬鹿みたいに鈍感で無自覚で、それでいて爆裂に自己肯定感が高い人の存在は暴力性を孕んでいる。眩しくて目が開けられなくなる。私が苦しみながら計算したり演出したり化粧したりして骨を折っている間、彼女たちはただ目を開けるだけでいい。ただ息を吸って吐いて、そして大きな声で笑うだけでいい。私の削られてえぐられて尖り切った自尊心がまた崩れていく。私じゃ私を肯定してあげられない。飄々としたふりをしながらひどく周りの目を気にしている。休みの日のほとんどを本を読んで過ごす。どこにも出かけない。誰にも会わないで済むし見られないで済むから、平日を乗り切ったわたしの生活は家具みたいに静かで、誰の目にも映らないで気配を殺していられることは私に言いようのない安心を与えてくれる。それは束の間の平穏でしかないのに、ここでこうして一人でいる限りにおいては、誰であっても私に指一本触れることができないという当たり前のことが、私にはとても心強く感じられる。SNSを閉じれば他人の現在は消えるけど、私のこの人生は残ったままだった。消えようがなかった。私が考えたことが全部嘘ならいいな。私の人生には常に物語が必要だった。心を飛ばすだけの旅をして、一日を生き延ばすための膨大な価値に安心する。でもそれなら私のこの皮膚はこの肉体は一体なんのためにあるというのだろう。そういうことを考え始めると、すんでで繋ぎ止めた精神と肉体が再び乖離する。私の精神やら魂やらと肉体としての身体というものの間には薄い膜くらいのフィルターがあるようで、私の本体は人間世界で生きる身体を操縦する虚だった。いつからそう感じるようになったかは分からない。私が私をうまく動かさないとゲームオーバーになってしまう。そうして残機はどんどん減っていく。

私は「陽気さ」というものを常々拒んできた。いつも寿命を削る覚悟で外に出る。重たい四肢を引きずって歩く。頭はぼんやりとして働かない。疲れやすい体、くたびれやすい心だ。この間の土曜は職場の先輩の結婚式だったので、いい機会だと思って美容院に行った。長らく傷んでうっすら茶髪だった髪をすみからすみまで真っ黒にしたら、少しは人間らしくなった。「覚えておきたいね」ランク外の他愛もない日常。孤独や絶望や漠然とした不安を他の誰かとの生活によって埋め合わせながら生きてきた自分。体だけが歪に大人になってしまった。自分を助けることができるのは自分だけで、何をどうしても誰と一緒にいてもどこに行こうとも、自分自身の心の持ち方、日常の歩き方を変えなければこの人生が変わることはない。劇的な何かをいつも待っているけどそんなことは起こらない。一人の人間の中で極端な明るさと深淵のような暗さを両立させて滑稽だ。分かってはいる。分かってはいるのだった。