白い野のなか

私が23年間生きてきて一番嬉しかったことは、行きたいと心の底から思った大学に入学できたことでした。両親が私をよく導いてくれたということもあってか、私は自分の強い意志というようなものがあまりない子どもでしたが、そんな私がそれまでの人生の中で唯一、親に頼み込んで決定することができた進路希望でした。私は言葉が好きで、物語が好きで、そしてそれらが私の世界の全てでもあったので、必死に勉強しました。入学できて嬉しかった。自分の努力が報われたという経験があまりなかった私にとって、それははじめての成功体験でもありました。それまでの私の“成功”といえるもののすべては運と偶然によるものであって、私は自分の手で何かを手に入れたことが一度もありませんでした。

晴れて入学した渋谷の大学は想像していた以上に素晴らしく、趣味や興味の範疇でしかなかった空想がすべて学問の道へ繋がっているという実感を得たとき、私はほんとうに幸せでした。学問は思っていたよりもずっと自由で、安らかで、それでいて孤独でした。その崇高さをどうして愛さずにいられたでしょうか。私は毎日手書きで3行の日記を書きました。手帳のわずかなスペースが埋まっていくのは気持ちが良かった。今はもうその毎日の日記はやめたし、スケジュールを手帳に記すこともしていません。

私は常に自分の余白を埋めようと必死に頭を働かせていました。私の首の前には常に緊張したピアノ線が張られていて、少しでも間違った動きをしたらすぐにでも死んでしまうと思っていました。私の余白は、私がこれまで決断しようともせずに遠くへ放ったものがかつてあった空き地なのだと思います。余白ばかりを膨らませてわたしは少しずつ大人になりました。わたしにとって世界は常に薄明の中にあり、いざ戦うとなったとき、わたしは刀の抜き方すら知りませんでした。

わたしには、人に話すのはもちろん、匂わすことすらも憚られるようなごくごく個人的な絶望があります。

そのちいさなちいさな絶望を喜怒哀楽の感情のいずれかに当てはめることは到底不可能だと言ったら、同級生には嘲られるでしょうか。形容できないのであれば大した問題ではないと大人には軽んじられるでしょうか。騒音に耳を塞いで物語に没頭しよう、わたしだけの静謐な世界を作ろう、そしてそこに永遠に閉じこもることができたのなら。誰にあてるわけでもない言い訳めいた思考を浮かべ、ときどき苦し紛れに現実に目を向けて、疲れたら深く眠りました。

私は今後、誰に会っても何をしてもどこに行っても何を楽しんでもどう生きても、もう心が踊ることはないということを骨の髄まで知っています。これまでの数え切れない諦念の蓄積がこの虚無と憂鬱を作り出しているのでしょう。友達や家族に会うと嬉しい。でもそれ自体が私のこのぼんやりした不安を払拭することはできないのだと思います。大学生のとき、希望した大学で大好きな勉強をしながらも、私は毎日絶望的な気持ちで過ごしていました。ずっと水中にいるようで、お医者さまには突発性難聴と言われたけど、それが半年続きました。声もうまく出ませんでした。はじめは不便で不安で仕方なかったけど、それはそれで死後の世界みたいでとても綺麗だった。私は生まれてこの方風が吹き荒ぶ荒野ではなく、限りなく明るく、物も音も何もない、だだっぴろくて白っぽい野に投げ出されているみたいだと思いました。雨風やそのほかこちらに突き刺さってくる攻撃的なものから無防備な場所ではなく、ぼんやりした抽象的な感じの場所。白い何もない野に、自分が一人きりで佇んでいる景を、それ以来ときおり思います。台所のシンクを洗い終わって手を拭いている刹那に、仕事を終えてパソコンを閉じた次の瞬間に、電車の窓から線路沿いのへりに見えるイチョウの群れを見ている時に、人混みの中で進むべき空間を見失ってしまった折にその景は浮かんできます。世界との一体感みたいなものが多分みんなにはあると思っていて、私はいつか分からないほど前にそれを失っていて、代わりに頭の中にはその白い野と、グラグラのブランコがあるのでした。いつまでぶら下がっていられるか分からない人生ということに気付いてからというもの、生活や日常というもののなかに求めるものは心の平静しかなくて、それ以外のことは大して重要ではなくなりました。その時点から物の見方や考え方が根本的に変わって世界の色が変わったのだと思います。引力に導かれるように生きてきました。神さまがしたためた完璧な筋書きのなかで、いつも膝を抱えてばかりの役がいたんでしょう。そしてそれが私に与えられたものだったんでしょう。