この痛みを含めて

言葉や文字の並びが好きで、同時にそれを好きなまま生き続けるのはとても辛いことでもあり、ほんとうは名前なんてなかったはずの気持ちに、いちばん近い(と思われる)言葉を当てはめて形容する作業は決して終わりが見えない。なにも納得できない。どうにもしてやれず放った感情のほうが多かったはずだ。言葉はわたしの大切な冷たい甲冑で、それを毎日身につけているせいで脱げなくなった。でもその下に生身があることを忘れてしまえるわけではない。生身が消えてくれるわけではない。わたしの生身は常に守られて、同時に締め付けられていて、他者から殺されない代わりに自分のせいで鬱血していく。泣きながら手作りしたこの静謐な世界にはわたししかいない。わたし以外は入れない。

「あーーー!」という文字の並びにしてしまった時点で、「 」という叫びは、「あ」に長音がくっついたもの、としか認識できなくなってしまうもので。本当は別のこと叫んでいたと思う。そうだよね。同じ歪みを隠して笑っていたこと、痛いくらいに分かるから。言葉は他者との共通認識の上に成り立つ約束ごとで、その約束ごとに辿り着くまでの果てしない距離を渡る間に、心の中にあった時点では本当だったものは絶対に形が変わってしまう。だから他者がいる限り、ああ、これは「あーーー!」でいい、もう、と諦める。言葉は全部を嘘にする。心の中の時点では本物でも口から出れば嘘に変わっている。誰にも神にもどうしようもない。溜め息や表情などを使ってみても私の役に立たない。正しさは確かに存在している。それを誰かと共有することは決して叶わない。生身で生きてみたとしても、同じものをみつめることはできない。わたしの青とみんなの青は違う。誰もが誰とも分かり合えない。手を繋いでも毎日顔を合わせて裸で抱き合ってもなにも変わらない。

3:33

これで正解だったんだろうかと最近ずっと考えている。四角い木のテーブルに夕飯を並べながらもずっと考えている。良かったんだと思う日もあれば、やっぱり間違っちゃったかもと思う日もあり、それは私の中で一種の占いみたいになっている。良かったと思えれば調子がいい日だし、そうでなければあんまりよくない。とりあえず一人の暮らしでは、お気に入りのピーマンの肉詰め、小皿にはナスと大葉の焼き浸しを盛り付けて、いただきますと小さく言って食べ始める。鎌倉で買った箸置きは見飽きてしまって面白みがない。

今日は曇りだった。向かい合うように置いてある大切にしている本棚にはぬいぐるみゾーンがあって馬鹿らしい。日々は変わらない。頭の中には常に漠然とした不安が横たわり脳みそのひだまで染みついている。

優しくなれない

なんか元気になったつもりでいたけど所詮一時的なその場しのぎの寛解でしかなくて基本的にはずっと苦しくて日常はそれを誤魔化すことの繰り返しでふとした時に自分の繊細さを思い出してはどん底までまた戻って憂鬱になったり泣いたり私の人生ってこれからもずっとこんな感じなんだろうか。辛い。ずっと辛い、人間としてこの先もずっと生きていって自分の感情や人の心の微細な動きに勝手に振り回されて疲弊していくことが辛い。私は私が私であることがずっとしんどい。呪いみたいだなって思う。もっとバカで素直で翳りのひとつも無くて実直で不誠実でクソみたいな日常生活人生を喜べる愚かで優しくてこの上なく美しい精神を持っていれば良かった。私のこの絶望はすべて無意味で何も救いはしないし道標にもならなければ行き先にもならない。修繕を重ねていい気になっていても指先一本のたった1ニュートンの力で簡単にボロボロに崩れてしまう心はいつもいつもいつも役立たず。いいなあ皆さんは私と別れることができて。私は死ぬまで私と別れられないんだもんね。もう全部辞めて諦めて捨てないと自分から離れることができないんだもん

僕の少年よさようなら

やさしい気持ちで生活してみても人間として本当にやさしくなれるわけではない。やさしくしようとして人に接してみても結局はやさしくしようとしてしているというだけで、本当にやさしい人になれるわけではない。それなりに充実した休日を過ごしても自分をゴミクズのように感じる。明るい未来がある気がしない。明日の仕事もうまくやれない。不安症神経質的な気質を隠しながら仕事をしているけれど限界が近い。国語の成績だけは良かったのに。読解力なら低くないはずなのに。コミュニケーション能力が著しく低い。私は人の腹の底を勝手に想像してしまう。それが疲れるから人と距離を置いている。空気を読むことばかり上手くなり、本当に思っていることは何も言えない大人になった。

そこにひとつの海が

昨年の9月に23歳になってから、やたらと海を見に行った。別に面白くもなんともない。いつ見ても変わり映えもしない。なのに何度でもどこへでも見に行ってしまった。

私は内陸の地に生まれ育ったので海に対する爆裂な憧れがあった。海はともだちでも母でもなく、荘厳で雄大ないつだって敵わない何かであった。向かうたびに胸の深いところからヒュッと音がする。子どもの頃は両親に連れられていった海水浴のための夏の海しか知らなかったから、東京に進学してからというもの冬の海が見たくて仕方なかった。夜の海も同じだった。夜の海は恐ろしい。寄せては返す波の揺らぎは真っ黒の泥のようで、たぷたぷと音を立ててこちらを凝視していた。

人に話せば話すほど解像度が低くなって全く違うものになってしまうような類のことが積もれば積もるほど、私は本当に孤独になっていった。口で話す能力が低くいつも何言ってんだろうって思う。本当はもっと言いたいことあるのにな。話したいこと聞いてほしいこと分かってほしいこと、もっともっとたくさんあるのにな。みんなにとっての共通認識、共通言語というものは常にそこに存在している。それらが展開されるごとに、自論はさらに強固に、そして閉塞的に。私の世界は私の頭の中でだけ完璧に構築されている。

 

犬としての習性

好きすぎると隠したくなる。好きなものの好きなところを自分だけのものにしたくなる。音楽、映画、小説、全部そう。人に対しても同じ。大人になるにつれてその傾向が強くなっている気がする。私は好きなものや好きな人の前では首輪をつけられた従順な犬のようになる。宝物をたまに取り出してはうっとりと見つめてまた入念に隠す。埋める。隠す。埋める。隠す。その繰り返しの中で愛情を深くしていく。

本当に好きなものを知られることはこの上なく恥ずかしい。嫌いなものの話はいつだってどれだけだってできるのに、好きなものは直視できない。好きなものは私のすべてで、私の魂そのもので、だから本当に心から愛しているものを知られることは私のすべてを知られてしまうことのようで、音楽も映画も小説も場所も人間も「いちばん」を誰にも教えたくない。私だけが分かる私だけの理由でそれらを愛しているのだといつまでも勘違いしていたいのだ。そこに陳腐な共感はいらない。傷を付けたくない。私だけの解釈で純粋にぐちゃぐちゃに愛を歪めていたい。

 

3年生の皆さんへ

もうすぐ卒業してしまう皆さんのことを毎日考えています。皆さんと去年の4月に初めて出会ってから先生の教員としての人生は始まりました。皆さんは先生が生涯教える高校生の中で最も年齢が近いひとたちです。ひとつの時間をまっすぐに進むことしかできない我々が何者かにそれを塗り替えられてしまう瞬間は永遠に来るはずはなく、そういった意味ではすごく特別な、妙に不思議な気持ちが湧いてきます。5歳ばかり年上の女教師は、皆さんにはどう映っていたでしょうか。

高校生活の中でいちばん印象に残ったことはなんですか。体育祭。文化祭。球技大会。関東大会、インターハイ。皆さんの頭の中には色濃く残り、消えない思い出があるでしょう。いちばんお気に入りの写真はなんですか。インスタグラムやLINEのアイコンにはキラキラのあなたがたが映っているのではないでしょうか。先生は高校を卒業してもう5年が経ちました。たまに当時のことを思い返します。あんなに楽しかったイベントのときのこと、実はあんまり思い出しません。必死に撮った写真も、盛れたと思った動画も、大笑いしたはずの話の内容も同様です。じゃあ何なら、と思いますか。私が写真フォルダを見返すときスクロールの手を止めてしまうのは、遡ってまで見たいと思ってしまうのは、思い出にもならないような、一昨日の夜ご飯と同列に扱っていたはずのあの日々です。当たり前は喪失してから輝き出すものなのだと思います。もっと大事にすればよかった、と思う必要はありません。大事にしなかったからこそ今になってことさらに光るんです。それでよかったんです。意味も価値もないものより美しいものはありませんでした。

そんな無価値な思い出をだっこして生きて、いつか究極の二択をどうしても選ばなければならないとき、誤魔化しでもその場しのぎでもいいから、生きる方を選んでほしいと思っています。生きていってほしいです。先生は大学生のとき、毎日死ぬことしか考えていませんでした。それしか考えられませんでした。死ぬことでしか自分は救われないと思っていました。そしてそれは今も変わっていません。自分の内面にあるどうしようもない苦しみから逃れることを突き詰めると、どうしても命を絶つ以外の方法が見つからないのです。それでも生きる方を選んできました。今ここに立ち文字を打っているこの瞬間もその選択の上にあるものです。息をすることを選び続けています。生きる方を選ぶこと。生きることは辛く、厳しく、悲しいことの連続です。「いつか良いことあるよ」で回収しきれないほどの絶望が先生の人生にはべったりとこびりついており、剥がれるわけがないと骨の髄まで分かっていて、それでも教師になりました。自分以外のすべてで世の中は完結している。その確信を塗り替えることができないまま大人になりました。

皆さんも同じように、何かに、形のない何かに、原因も出所も分からない何かに、あるいは自身の内的な闇のような何かに人生を狂わされる日が来るのかもしれません。無垢である必要はありません。大人はあなたがたに無垢であることを望んできたでしょう。純真さを求めてきたでしょう。そしてあなたがたはそれに応えるように、また諦めるように、無邪気さを演出した日もあったことと思います。高校生らしさという実態のないものに縛られることを願われ続け、あなたがたはここで3つ年齢を重ねました。スカートの丈が膝より5センチ高いから高校生らしくない、前髪が目にかかりそうだから高校生らしくない、ということを論理的に説明できる大人はいません。「らしさ」というものに囚われる必要はありません。いわゆる自分らしさも要りません。あなただけの静謐な世界を生きていければそれでいいと思います。それが女性らしくであろうと男性らしくであろうと大人らしく、子どもらしくであろうと、なんだっていいです。

先生が国語の授業で扱ってきた教材はどれも退屈だったでしょう。退屈なものほど価値があると思い込ませるような授業をしてきたと思います。でも本当はそんなはずはありません。本当に面白くて爽快で、読んだ後にパッと世界が開けたような感覚になる、そんな本がこの地球のどこかに必ずあります。あなたがたはやっと選ぶことができるようになったのです。また自分の意志で「選ばない」という選択をすることもできるようになったのです。そもそも人生には意味などなく、人によっては意味らしきものを感じる機会があるだけです。その機会に恵まれる人とそうでない人がいるだけとも言えます。意味や意義ではなく、ほんとうに必要だと思うものを大切にすればいい。先生にとって命綱とも言えるそれは、みなさんが死ぬほど退屈だと思っていたであろう文学そのものなのでした。それに出会えたことは先生の人生の唯一の成功だったと思います。文学は先生を人間にしました。皆さんにもそのくらい好きなものが、愛してしまうものが、愛さずにいられないものができると嬉しいです。それはあなたがたの血となり肉となり、体中を巡って、脳から溢れそうな希死念慮を抑えてくれると思います。

卒業おめでとう。学校のことも先生のこともすっかりさっぱり忘れることができるような人生を送れることを願っています。先生を先生にしてくれてありがとう。ご無事で。これが永遠の別れなら、永遠にご無事で。