座礁

朝は6時に目を覚ます。始業は8:30。うちから学校までは車でおよそ15分ほどで、家を出るまでに必要な準備は30分で済ますことができるのにどうしてこんなに早起きなのかというと、ベッドの中で毎日ジリジリと葛藤するからだ。1日のことを思い浮かべる。入眠する直前と起床すぐの時間は特に憂鬱で仕方がない。働き始めてもうすぐ1年が経とうとしているものの、自分で選んだ椅子の座り心地にどうしても慣れない私は、自分の気持ちを無理やり納得させようとしている。来年は2年目になるので、担任を任される可能性があるらしい。

社会に、ひいては世界に違和感を持つことは世界のうちに自分の居場所がないと感じることに似ている。世界との一体感が失われて、すべての事象が世界から自分へと突き返されて、世界にも自分にも違和感をいだく自意識のもとに、明快な答えなど与えられそうもない疑問が立ち現れる。生きることは何か。生きる意味は何か。その疑問に取り組むことはすべての違和感にあえて目を向けることであり、世界と一体化できない自分から目を逸らさないことにほかならない。

美しい生き方、美しい終わり方のために毎日を犠牲にしてきた。心を無碍にしてきた。すべては美しく正しい求めたそのもののために。そして馬鹿な私はしくじり続ける。何をどう間違えたか分からないまま間違いを続ける。疑うのは、許すのは、見破るのは、嘘をつくのは、愛するのは、守るのは、そのすべてが難しくて、あの頃もいつかも今ですらなんとなく存在しているだけで、それだけで。人に期待をするのも自分に期待をするのもうまくできなくて、私は私を傷付けるすべてのものを遠ざけていた。私のものじゃないし、私のものにはならないし、私の人生は寓話で、私を含むすべての登場人物は擬人化された何かに違いないのだから。そうやって心を遠くに飛ばしていたら痛くない。面白くもない遊びで本当に欲しかったものを誤魔化して、これでよかった、これでよかったと安心している。鬼ごっこの鬼ばかりを他人にあてがっては、はじめから成り立たないゲームを手を叩いて笑っている。本来の役割に戻ったとき、そのときには、私の名前のすべての音が生涯あなたの呪いになりますように。あなたが誰よりも幸せでありますように。

脱獄

目を開けた瞬間から太陽に責められているような気がしていた。それが西日ならもう気分は最悪だった。私にはとにかく体力がない。身体的な体力でなく、精神的な体力が終わっている。私は皺が伸びて伸びて伸び切った脳みそで、枕元に置いた時計の針が午後16時を指しているのを確認する。地面を踏んでいるはずなのに足元には何もなくて、そもそも私の周りには触れるようなものが一切なくて、自分は何にも繋がれていないんじゃないかと甘ったれた妄想で押し潰されそうになる。その瞬間は生活をしていると絶妙なタイミングで現れて、私の目を徹底的に眩ませていく。

誰かと何かで食い違った折に自分の意見を主張しないことで、自分の中で作り上げている静謐な世界に他人を介入させまいとする、そんなずるっこい私は、自分と他人の間に絶対的な距離を置いて、年に小説を何十何百と読んではその価値観にじっくり浸り、強固な私ワールドを築いてきた。私は割とへらへらしていられるし誰にでも優しくできるけど、いい人だと勘違いされているだけで、たまに自分の無関心さを欠陥のように感じて恥ずかしい。すべてはしょせん窓の外の出来事で、でもその窓にカーテンをつけることはできず、ごうごうと燃える外の火柱を見ては内的に苦しむ、ということを繰り返している。

大学生の頃は自殺をしなければ「私」という作品は一生完成しないんだと思っていた。私は自分に変な期待をできるだけ持たないようになった。テレビを付けたらたまたま流れた馬の出産に心から感動して生命の偉大さに胸をつまらせたところで、その3日後には理由もなく絶望していたり、そういうどうしようもない現実を幾度となく経験してきたのだった。自然が好きで、月を見たり遠くにおぼろに見える山々を眺めたりしていたけど、そうやって綺麗に見えるものもこちらの精神状態ひとつでどうとでも汚せてしまえた。月が綺麗なんてそんなのはなんのひねりもないただのイメージだ。私はこういった感覚の部分で完全に自己完結している節があり、世界に対して閉じていると感じることがある。だから恋愛を通して二者完結することを常々拒んできたし、自意識という牢獄を牢獄と感じなくなることが主題の人生の中で、奇跡が起こることをいつも待っていた。運命という言葉はそれまで自分が選択してきたことのすべての結果だと思う。他の存在しえた運命を殺すために何度も口にしてきた。運命を単なる「奇跡」で終わらせないためならもうなんだってしてやろうと思う。

道徳1

子どもの頃からずっとひねくれている気がする。三者懇談とか家庭訪問といった類いのイベントでは先生から「道徳のときの発言がとても良くて…」言われることが多かったけど、わたしは道徳というものにも所謂正解があると思っていて、道徳の時間はいちばんそれっぽい答えを考える時間だと思っていた。だから自分の人間性とか倫理観とかが育まれた!と実感したことはない。善い奴はずっと善い奴だし、悪い奴はずっと悪い奴だ、と、大人になってからはっきりと思うようになった。それは幼少から漠然と考えていた真理であった。わたしは昔から国語だけはできるガキだったので、そしてそれ以上に嫌味なガキでもあったので、用意された物語のその先に期待されている結末をたぐるのがうまかった。

善い奴か悪い奴かで言ったらわたしはめちゃくちゃに善い奴で、どうしようもなく善人で。でも悪い奴のことが大嫌いすぎるからやっぱり善人とは言えないのかなあ。確かに善い奴って基本損するように世の中できてると思う、青春枯らして過ごすくらいなら悪い奴になったほうがきっとずっといい。人を傷つけたくない。それは人に傷つけられたくないからで、自分の傷に敏感なので他人に傷を付けたくない。他人の人生に痛みを与えるような責任を持ちたくない。他人の痛みを想像して苦しくなることがつらい。こういった臆病な気持ちが多分、山奥に住みたいとか人里から離れたいとかいう戯言を生み出していると思うんですけど、わたしの厭世観はこういう偏屈な優しさから来ているので、排他的になるのはつらいから、それならわたしがどこかへ溶けて居心地よく過ごそうみたいな、言い換えれば単なる情けなさによって、私は夢を見させられている。

善い人でいるほど良いことが起こるなんてことはもう本当に全然ない。むしろそういう幸福への受動的な態度っていうのは神さまから軽視される。人から求められているものを察知して正しいものを提供する姿勢はまったく褒められたものではない。私は善い奴のまま生きてきたけど、それ以上にずっとずっと捻くれていて嫌味なガキのままであると思う。

自分が理解できないことはスルー、理解し合えない世界はスルーすることにしました。わたしは人と対話するとき必要以上に丁寧に色々考えてしまうので、それで疲弊して、家に帰って一人になった瞬間にぐったりと泥のように伏すことしかできなくなる。好きじゃない人にも優しくできるのは、私が冷たい人間だからだと思う。理解しようとして衝突することは疲れるので、その面倒さを回避するために心を遠くへやって、それで何が残るというんでしょうね。

ずぶ濡れの思い出

最近毎日ものすごく孤独を感じる。そしてとにかく眠い。電車移動が嫌い。今日は服を買うのを我慢した。似合ってるのかよく分からなかったしこれでいいか。最近は忙しくてあんまり自分の時間がない。でも別に誰といても何をしててもこのぼんやりとした不安が拭われるわけではない。どうしようもなく淋しくて、ずっと悲しくて、たまに泣きそうな気持ちになる。そういうときはもう黙って静かに耐えるしかない。嵐のような悲しみが過ぎ去るまでやりすごすしかない。いつになれば生まれたことに心から感謝できるんだろう。あなた方が私に出会う何年も前から私が大切に大切に築いてきた城の中で、私は私の無力さに殴られ続けている。

兄のようにみんなが知ってる大きな会社で勤めているわけでもなく、大きな組織の小さな個人として搾取に近い労働をして日々を過ごしつつ、夢を見続けるのが私の限界だった。人生は真正面から向き合うにはあまりにも大きく、目を逸らしてはにかむくらいがちょうどいいんだと思った。化け物みたいな劣等感を抱えきれずに眠れない夜を何度もやり過ごして23歳になった。来年は生まれてから二度目の回り年だ。うさぎ年。子どもの頃うさぎは可愛さの象徴だと思っていたから、自分がうさぎ年に生まれたということを愚かにも誇らしく思っていた。人間のことと目の前の問題に正面から向き合いすぎだよと言われた頃を思い出す。そうだったね。あれからしばらく経って、いまは反対に、すべての事象に焦点を当てられなくなってしまった。何もかも適当。人間関係も仕事も、幸も不幸もわからない。流れるように、流されるように過ごす。朝が来るのが怖い。明日死ぬと分かっていたら。明日この世界が終わると分かっていたなら。そしたら仕事に行かなくても済むし会いたくない人にも会わずに済む、そして好きな人とも本音で話すことができる。コミュニケーションが取りたい。私の投げたボールをキャッチして。キャッチできなくて地面に落っこちても拾って投げ返して、それがどこか遠くへ行ってしまったら、一緒にボールを探して。書き言葉なら流暢なのに、話し言葉だとつっかえてどもってしまう私を知っていて。

気が付けば

19歳で死ななかったのなんでだろうね。19歳で死ななかった私への罰が一生体に突き刺さって今もまだ抜けない。可愛くもなければ特別不気味にもなれない中途半端な私に、そんな私に、どうやったらちゃんと人を大事にできるのでしょうね。私には決定的に余裕が足りない。

やめたい。生きていくために必要なものはすべて、実は等しく、私を殺すための装置。必要なものだけで生活のすべてに満足するなら騙されることを受け入れなければならない。騙されないという不幸がこの世にはあって、それはそれは数えきれないくらい山ほどあって、その不幸のせいでその度に目を潰してきた。うまく騙されなかったせいで負った傷の痕を舐め続けている。

嫌な記憶に魚の名前をつけよう

私は嫌な記憶は鮮明に覚えているし折々で思い出すけど、楽しかったことや嬉しかったことはもやがかかったようになってしまう。「もしかして気のせいだったのでは?」とすら思う。きっと夢だったんだ。夢だったことにしてしまう。だから初対面から一、二度ほどしか会っていない人とはうまく話せない。その人はどういう感じの人だったか、どう接したらちょうどいいのか忘れてしまう。会話の内容を覚えていないわけではなくて、多分覚えてはいるんだけど、それでも全部気のせいだったような気がしてしまう。変な人見知りみたいになって疲れる。

最近だいぶ心の調子が良くなってきた。感情が上空から地に落ちて粉々になることが減った気がする。このあいだ、躁鬱についてどんな理由でそうなったのか、何がきっかけで気分が落ち込むのか、そうするとどうなるのか等聞かれてうまく答えられなかった。これといって明白な理由はない。私の人間性がもともとそちらを向いていて、誤って淵から落ちた先に躁鬱があったのだと思う。病院の先生からは「よくその状態で頑張ってきました」と、大学の教授からは「あなたは人よりもセンシティブ」と言われた。私の人としての根本には暗いうろのようなものがあり、そこに社会や人間や生活に対して感じる嫌気を放り込んでいるうちに蓄積して少しずつ広がっていき、全身を蝕んでいった。だから健常な人が想像するような劇的な出来事は何もない。ただ日々の中にそれは横たわっていたのだろう。

感受性が豊かと言えば聞こえはいいけど、まったくいいことではない。人生という海を船で渡るには愚鈍なくらいがちょうどいい。私の精神が暗闇のどん底まで落下するのは人の心の動きに自分の心が同調してしまうためだろうだから。センシティブ。便利な言葉だ。バカみたいにセンシティブだ。落ちてしまうと私はもう立ち上がることができない。靴紐だってうまく結べない。外に出るために自分に暗示をかける。いいことがあってもひとつの悪いことでそれは帳消しになる。80点の一日が一瞬で0点になる。だから夜に眠れない。夜に眠れない人は一日に満足していない人だそうで。

23歳になろうがこの先健康にずっと歳を取ろうが、ゴリゴリに周りを見ては焦り、立ち止まり、ぎゃあぎゃあ泣いて阿鼻叫喚の大騒ぎをしながら自分の中で言葉が炎の柱のようにごうごうと燃えるのを見守り、記録していくこと。そうして生きることこそ、生きている実感を返り血のように浴びていられる唯一の方法なのだと、私は受け入れつつある。そしてそんな日々のすべては、いつか割るくす玉の中に紙切れを詰め込む作業だと信じている。死ぬ時になってその紙吹雪の中で思うのだろう。何も間違っていなかった。何も間違ってはいなかった。

超一方的完全勝利

先週の散々な激務を終わらせてくたびれきった体でベッドに沈んでいる。そのせいで変なことを書きたい。

夜の私は昨日の夜の私よりも綺麗になろうとしていて、明日の私は今日の夜の私よりももっと可愛くなれる、はずで、その予定はきっと侵されることはない。

彼氏の元カノって誰に何を許可されて息をしているんだろう。彼氏の元カノと呼ばれる人間が普通に食事をしたり排泄をしたり朝はちゃんと目を覚ましたりすること、そしてその他諸々の営みが彼女の自由意志であることの意味が私には全く理解できない。

以前。彼氏の部屋で彼氏が仕事に行くのを見送りほくほくしながらベッドで暇を持て余していたところ、不意に足の爪先にぶつかった紙袋が気になった。よせばいいのに何気なく見てしまった。すると中から彼氏がかつて好きだった女からの手紙が出てきてしまった。それは元カノというやつらしかった。一通だけ目を通して元のようにしまっておいた。手紙にはハートマークがいっぱいで、もちろん彼女に名前があることに驚いた。私の頭の中にはその手紙が繰り返し現れたので、脳の端に寄せておいた黒のマジックペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶして、心の窓から投げ捨てた。てか、結構普通に息とかしてるんだね。

金輪際、元カノが私の恋人の部屋にコンビニの袋を提げてやってくることはないということ、承知。私の方が頭が良く賢明なこと、それも承知。私の方が生まれた瞬間から可愛くていい女だってこと、当然承知。私のほうが感受性が豊かでそれゆえ人に優しくできること、人を好きになれること、同時に人に無関心になれること、それだって私はちゃんと分かっている。

だけど、通称元カノは、私がまだ20やそこらでこれから私を惑わす出来事にすでに落ち込んだりして、必死に当時の彼氏からの言いつけを守り、彼からの「可愛い」を当然のように享受していたあの頃、通称元カノは私の恋人と恋愛をしていた。そして恋人はその元カノからの手紙やその他諸々の思い出の品を、引っ越し先にまで持ち込んできたという強すぎる現象。私たちはきっと気が合うだろう。この男の子がどれだけ可愛いか、どれだけ優しいか、慈しむべき存在なのか、そんなことを話してお茶でもして盛り上がって、また会いましょうとさよならをする。私は恋人が待つ部屋に帰る。そして元カノはそのまま崖から落ちて死ぬ。

 

私に大切な優しい思い出がある分、同じように、みなさんにも素敵な思い出があるのでしょうね。手紙を見つけた時は驚いたけど傷付きはしなかった。読んで動揺もしなかった。ただ不思議だった。私の恋人がかつて別の女の子のことが好きで、守りたいとか、大切にしたいとか、そういう感情を持ったということに現実感を持つことができない。大事な思い出だとしても、その約束守れなかったんでしょ。私が一番可愛いんでしょ。それなら燃やせるでしょ。割り切るためには引いてくしかないんですよね。私が引いて引いて、全部なくなってゼロになっちゃう前に、その前に、ちゃんと全部精算して隠しといてね。