道徳1

子どもの頃からずっとひねくれている気がする。三者懇談とか家庭訪問といった類いのイベントでは先生から「道徳のときの発言がとても良くて…」言われることが多かったけど、わたしは道徳というものにも所謂正解があると思っていて、道徳の時間はいちばんそれっぽい答えを考える時間だと思っていた。だから自分の人間性とか倫理観とかが育まれた!と実感したことはない。善い奴はずっと善い奴だし、悪い奴はずっと悪い奴だ、と、大人になってからはっきりと思うようになった。それは幼少から漠然と考えていた真理であった。わたしは昔から国語だけはできるガキだったので、そしてそれ以上に嫌味なガキでもあったので、用意された物語のその先に期待されている結末をたぐるのがうまかった。

善い奴か悪い奴かで言ったらわたしはめちゃくちゃに善い奴で、どうしようもなく善人で。でも悪い奴のことが大嫌いすぎるからやっぱり善人とは言えないのかなあ。確かに善い奴って基本損するように世の中できてると思う、青春枯らして過ごすくらいなら悪い奴になったほうがきっとずっといい。人を傷つけたくない。それは人に傷つけられたくないからで、自分の傷に敏感なので他人に傷を付けたくない。他人の人生に痛みを与えるような責任を持ちたくない。他人の痛みを想像して苦しくなることがつらい。こういった臆病な気持ちが多分、山奥に住みたいとか人里から離れたいとかいう戯言を生み出していると思うんですけど、わたしの厭世観はこういう偏屈な優しさから来ているので、排他的になるのはつらいから、それならわたしがどこかへ溶けて居心地よく過ごそうみたいな、言い換えれば単なる情けなさによって、私は夢を見させられている。

善い人でいるほど良いことが起こるなんてことはもう本当に全然ない。むしろそういう幸福への受動的な態度っていうのは神さまから軽視される。人から求められているものを察知して正しいものを提供する姿勢はまったく褒められたものではない。私は善い奴のまま生きてきたけど、それ以上にずっとずっと捻くれていて嫌味なガキのままであると思う。

自分が理解できないことはスルー、理解し合えない世界はスルーすることにしました。わたしは人と対話するとき必要以上に丁寧に色々考えてしまうので、それで疲弊して、家に帰って一人になった瞬間にぐったりと泥のように伏すことしかできなくなる。好きじゃない人にも優しくできるのは、私が冷たい人間だからだと思う。理解しようとして衝突することは疲れるので、その面倒さを回避するために心を遠くへやって、それで何が残るというんでしょうね。