暮らすということ

たぶん誰もが一度は聞いたことがあるだろう井伏鱒二の「さよならだけが人生だ」という言葉は、井伏本人の名前を置いたまま一人歩きしている感じがある。(正確にいうと井伏が漢詩を訳した時にうまれた言葉なんだけど)私はこの言葉に対して「幸福が遠すぎたら」という詩の中でアンサーを出した寺山修司がものすごく好き。以下に引用。

さよならだけが

人生ならば

また来る春は何だろう

はるかなはるかな地の果てに

咲いてる野の百合何だろう

(中略)

さよならだけが

人生ならば

人生なんか いりません

人生はさよならの連続で、物は壊れるし人とも疎遠になる。自分もいつかは死んで、自分以外のすべてと別れて、肉体からも離れなければならないときがくる。そういういつか必ず来る離別のことを思って井伏は「さよならだけが人生だ」と残したわけなんだけど、この当然とも言える淋しさに向き合ったのが寺山修司だった。さよならから逃げることはできない。でも我々の人生はほんとうにそれだけなのだろうか?生まれた瞬間にわけもわからないまま押し付けられた運命に従って、たださよならを繰り返し、さよならで終わるためだけに用意された命なのだろうか?善悪も禍福もいつか来たるさよならに向けてお膳立てされているだけなら、私たちは虚しさを抱かされて世界に放たれただけの出来損ないなんじゃないか。「さよならだけが人生だ」は諦めで、処世訓で、クライシスを乗り越えるための術だった。

実家の猫が弱っている。もう長くないとお医者さまに言われた。私より先に死ぬな。私より早く逝くな。小さくて美しいものほどすぐに遠くへ行ってしまう。きみは私の手に傷を付けて、他の猫を睨み、気まぐれに走り回って、疲れたらあたたかい窓辺ですました顔をして寝ていてくれ。腹に耳を当てると小さく速い鼓動が聞こえてくる。わたしはこの小さないきものと一緒に住んでからずっと、この鼓動を聞くたびに、そんなに急いで生きなくていいんだよ、と、泣きたい気持ちになった。

きみとの出会いが、たださよならのためだけにあったとは思わない。家では強気なのに、病院では誰よりも静かだった。わたしも家族もお利口さんだ、と笑っていたけど、きみのその気の強さは臆病の裏返しだったのだろうと今は分かる。手術をしたときもどんなに怖かっただろう。負担をかけてつらい思いをさせてまでいつまでもいつまでも生きてほしいと思うのは人間のエゴでしかなくて、だからもう手術も投薬もしないと家族で決めた。昔飼っていた犬を亡くして時が過ぎ、きみとめぐりあった日から、きみはわたしのもとにまたやってきた春だった。さみしい平原にともされた灯りだった。さよならだけじゃないんだと思えたんだよ。わたしの人生はきみと共にある。螺旋を紡いで生きることが暮らすということ。1秒でも長く、少しでも幸せに、きみの命が続くことを祈るしかできない。