銃声のない国で

調子が良くない時のわたしはほんとうにくだらない。「分からない」ということに対する恐怖が365日四六時中付き纏っている。入院していたときのわたしはいつも守られていて、そして何もできなかった。不必要に豪勢な個室の病室で隠されるように布団でぼーっと目を覚ましたときの、あの白んだ空を見た時の感情がずっと残っている。他のことはあんまり覚えていない。生まれて初めて乗った救急車のなかで切迫した誰かの声が耳にこびりついているというのに。

思い出しても意味のないことばかりが頭の中を巡る。わたしはいつも寂しがっている。簡単にそうは言えないので「寂しい」の代わりになる言葉をたくさん作った。会いたい、明日はなにするの、今日は甘エビのカルボナーラを作ったよ。でも全部しっくり来ない。わたしの席だけがどこにもない気がする。わたしには何かを築こう、成し遂げようといったような上向きな思考がまったく欠如しているのだ。頑張った分だけ席が増えていくこの世界で、わたしはマイナスをゼロに戻すことだけに苦心している。人といることで楽をしてプラスを得ようとしている。浅ましく「逃げていいよ」「辞めていいよ」を常に求めながら、その甘い言葉の裏に隠蔽されている何かを探ろうとしている。言葉に規定されながら。考えて考えて考え抜いて、吟味して削って尖らせて。

複合的な思いのひとつひとつを認識して感情を表現しようとしても粗末な言葉にしか収まらない。言葉にならなかった分が涙になる。言語化できれば処理できる。このまま救われないのかもしれない。だからいつも泣いてばかりいる。