誰かの神様になりたかった

辿り着けなかったところがたくさんあって、それをある種の概念や価値観の違いだと片してしまうには陳腐すぎるくらい、私は私の脳の作りだとか感性だとかに絶望してきた。

生まれ生き死ぬ、その三つの手順をすべて踏み終わったら、人は次のステップに行けるのだろうか。だとしたら、足りない私のすべてがちゃんと満たされるときが来るのだろうか。死に物狂いで夜通し考えても分からなかったことは他の誰かがものの1時間で答えを出すだろう。私はそれを甘んじて享受して、まるで自分のもののように、自分が見つけ出した財宝のように抱き込んで、大事に大事にする。毎日毎日それを繰り返す。死ぬまでそれを繰り返す。

大学時代は修羅だった。あれは確かに修羅だった。外に出るためにソファに蹲って膝を抱えながら手順を数えた。玄関を開け、ドアを閉め、鍵をかけて階段を降り、駅までの道に出たら左側を歩こう、間違えないように、間違えないように、駅に着いたら一番右の改札を通ろう。頭の中でシミュレーションを重ねることに全神経が集中していた。それでも玄関で靴を履くとき床に座り込んで動けなくなることも、外に出られても靴紐が解けたら心底死にたくなることもあった。今日死のう、今日寝る前に死のう、明日起きたら死のう、それの繰り返しをやり過ごしながらなんとかここまで生き延びた。今はそんな風には思わない。ひとつのミスで取り返しが付かないくらい落ち込むことは変わらないけど、靴紐が解けたら結べばいいと思うようになった。

辿り着けなかったところ、得られなかった物、あがいても切望しても虚無にしかならなかった事、指折り数えて生きる人生はこれからも変わらない。日々はどうしようもない。私のままで進むことができなかったから、硬い殻の中で自分を溶かして、次に目を開いたらここに立っていた。どれだけ大人になっても私の核は脆くやわらかく触れただけでバラバラになる。私はいつも夢想する。少女の私が膝を抱えて泣いている。