やってる感

わたしは本当は大学院に行きたかったんだけど、というか今も行きたいんだけど、好きな気持ちとは裏腹に、わたしには別に特別な閃きのようなものはないんだなあということがこの4年間で身に染みて分かった。わたしは子どもの頃、というより高校生の頃まで、もっと言えば大学に入ってすぐの頃までは自分にはなんだってできるし何にだってなれると思っていた。そうに決まっている、そうに違いないと疑うことも知らずただただ信じていて、ひたすら信じていた。夏が終わると蝉のことを思い出す。地元に帰ると気が滅入るくらいに鳴いている蝉は東京では目立っていないように思う。不在なのか喧騒に紛れているのかは分からないけど、都会は蝉までお上品なのかもしれない。そしてわたしはというと、夏の間に命を見せびらかす蝉に完全に負けていて、年がら年中蛹みたいに地べたに這いつくばっている。好きなことを仕事にって素敵なことだけど、研究にはめちゃくちゃな努力と忍耐と、かけらほどの閃きが必要だと分かって、なるほど好きなことを仕事にして食っていくことはできないと理解して、分かりやすい言い訳をするとそのめちゃくちゃな努力をするまでの情熱は無かった。誰かに分からせたいとか認めさせたいとかいう欲求もなければ、いわゆる才能とかいうものもあるわけがなく、閃きって継続のもとに生まれるものだとは思うんだけど、ここにはただ好きって気持ちがあるだけなので、それに伴う苦痛は御免!という感じで、まあその要は色々諦めたってことです。もともと好きなことをもっともっと勉強したり研究したりすることはやっぱりそれも好きで好きでたまらない気持ちになるんだけど、そんな甘いものでもなかろうし、そもそも大学院は無料施設ではない。だからかずっとここに留まっていたいという気持ちが多分常人の域を超えている。今は卒業論文を執筆している。始めてみるとそれはそれは楽しくて、卒論を書くにはたくさんの文献を参照する必要があるんだけど、それを読んでいる時間が好き。最近気付いたんだけど、わたしはインプットが得意で、アウトプットが苦手らしい。「はえ〜おもしろ」みたいな気持ちで読んでいるので、それを立体化するのに苦労している。たくさん文字を読んでいると自分も同じように論理的な文章を作れるような気がするんだけど全然そんなことはない。他人の考えをまるで自分自身で導き出したもののようにいつのまにか勘違いしてしまうこともある。卒論を始める前からのことだけど、たまに「これってこうなんじゃないか?」と思いついて図書館で調べてみると、私よりも偉い人が、私よりもずっと前に、私よりも正確にそのことを論じていたりして。そういう時はなんというか複雑な感情が入り乱れているのが自分でもわかる。やっぱり自分は正しかったんだ!という思いや着眼点優れてる〜とか思いながらも、反面死ぬほど悔しいし、ちょっとした虚しさを覚えもする。私が思いつくことの大半は他の人も思い付いている。笑えてしまう。その繰り返しに耐えることができる人にしか学問の道は開かないんだろうなって思う。卒論の執筆は楽しいけど、その楽しさはやっぱり解明の楽しさではないように思う。わたしの情熱は無風の中にしか灯らないのだった。